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パーミャチ・アゾーヴァ〔艦名についての表記状況は以下の通り。なお、出典の扱いについてはウィキペディアの出典基準に従うこととし、その水準に満たないものは原則として除外する。記載は順不同。 ; 「パーミャチ・アゾーヴァ」 : * サルキソフ、2009年、 7、 9、 10、 14、 21、 22、 26 頁。 ; パーミャティ・アゾヴァ、「パーミャティ・アゾヴァ号」 : * 保田、2009年、 17、 31 頁。 ; アゾフ号 : * 保田、2009年、 17、 31、 32、 33、 35、 36、 48、 53、 55、 65、 67、 75、 78、 335 頁。〕()は、ロシア帝国が建造し保有した装甲巡洋艦である。日本では大津事件の際のロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチ(のちの皇帝ニコライ2世)のお召し艦として知られ、ソビエト連邦(以下、ソ連)ではバルト艦隊最初の「革命艦」として知られた。 ロシア帝国海軍での配備当初のはフリゲート()または装甲フリゲート()であったが、同海軍でフリゲートとして配備された艦としてはこれが最後であった。その後、1892年2月1日〔付けで 1 等巡洋艦()〔、1907年9月27日〔付けで練習船()〔に類別を変更された。その後、ロシア共和国海軍、さらに労農赤色海軍へ所有者が変わった。1919年5月8日付けで()に類別を変更された。 艦名は、ロシア語で「アゾーフの記憶」という意味であるが、この名はギリシャ独立戦争の際、1827年10月8日〔10月20日。〕に発生したナヴァリノの海戦で英雄的に戦ったことが賞賛された戦列艦「」に敬意を表したものである〔サルキソフ、2009年、 7 頁。〕〔「パーミャチ」は正教会で「記憶」と訳され、聖人の記憶、生者のための祈り(聖体礼儀など)、永眠者のための祈り(埋葬式やパニヒダなど)で頻繁に出て来る単語であり、祈りを連想させる単語である。記事「永遠の記憶」参照。〕。関係者のあいだでは専ら「アゾーフ」()と通称された〔保田、2009年、 17、 31 頁。〕。伝統に則り、戦列艦「アゾーフ」から代々受け継いだを受領し、舳先にはを取り付けていた。ゲオルギイ十字を持つ、ロシア史上初の蒸気装甲軍艦である。 ではなかったがならびに船内設備が優れていたので、前述の皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィチのお召し艦として使用された。これに関連し、乗員は近衛に列せられている。 後世、「パーミャチ・アゾーヴァ」の名はふたつの事件で知られている。ひとつは、1906年にこの艦上で発生したらを中心とした叛乱事件である。この事件により艦は「バルト海の『ポチョムキン』」()と渾名され、ソ連時代に「革命艦」として広く知られるようになった。もうひとつは、この艦の最期である。当時すでに第一線を退いて港に繋留される浮き基地となっていた「パーミャチ・アゾーヴァ」は、第一次世界大戦中の1919年8月19日にイギリス海軍の魚雷艇による奇襲攻撃を受け着底、魚雷艇によって犠牲となった当時としては珍しい艦として歴史に名を留めた。 == 概要 == === 大洋巡洋艦 === クリミア戦争での敗北後、海軍の再建と外洋海軍の建設を目指していたロシア帝国海軍は19世紀後半、大洋における良好な巡洋性能の確保を最大の目的とした艦船、すなわち「大洋巡洋艦」(たいようじゅんようかん; )の整備を進めた。当時、世界的に見ても高い航洋性と攻撃力・防御力を両立した艦は少なく、前者を確保するために後者を犠牲にするか、後者を獲得したがために航洋性の劣る事実上の沿岸防衛艦となるのが通例であった。こうした中、ロシア帝国海軍でも当初は大洋巡洋艦については防禦装甲システムの装備を絶対条件とは考えておらず、それよりもまず十分な航続距離と航洋性を確保するのを優先して考えていた。従って、可能性としてはというのも存在しておかしくはなかった。 しかし、ロシア帝国海軍が実際に配備した大洋巡洋艦の大半は装甲システムを有していた。当時まだそうした名称は存在しなかったが、それらは後世でいうところの「装甲巡洋艦」であった。それらは当時の分類法において装甲フリゲートに数えられたが、この装甲フリゲートという艦種の中には沿岸防衛用の艦と外洋巡航用の艦とが混在していた。今日、装甲フリゲートの中で装甲巡洋艦に数えられるのは後者だけであり、それらは設計概念上の名称でいう大型巡洋艦であった。大洋巡洋艦の整備は1870年代に本格化し、19世紀末の海軍予算のほとんどが大洋巡洋艦の建造費に当てられた。その結果、20世紀初めまでに他艦種からの改修艦を含め 12 隻が配備された。それらは本国から交替で極東方面へ派遣され、本国バルト海から太平洋までの往復には長大な距離の航海をこなしていた。それらのうち、旧式化して事実上戦力外となっていた初期の 4 隻を除く 8 隻中 5 隻が日露戦争で失われ、ロシア帝国海軍がひたすら大洋進出を目指した時代も終焉した。それ以降、ロシア帝国海軍が巡洋戦力に重点的に力を注ぐことはなかった。 そのような文脈の中で、「パーミャチ・アゾーヴァ」は帆船時代の分類基準による「フリゲート」として設計された最末期の大洋巡洋艦であった。大公の署名による1886年6月27日〔7月9日。〕付けの海軍管轄官庁第83号指令では半装甲フリゲート(はんそうこうフリゲート; )と呼ばれたが、ロシア帝国海軍においてこの名称は、艦が閉鎖砲座甲板を持たず、喫水線部分にだけ防禦装甲を持っていることを意味している。それにも拘らず、しばしば装甲フリゲート(そうこうフリゲート; )とも呼ばれる。乗務士官らによって作成された1890年発行の秘密文書『フリゲート「パーミャチ・アゾーヴァ」に関する簡易資料』では、フリゲートと記載している。やがてフリゲートという艦種が廃止されかわって 1 等巡洋艦に類別が変更されると広く一般にも巡洋艦(じゅんようかん; )と呼ばれるようになり、装甲巡洋艦(そうこうじゅんようかん; )という名称が一般的になるとその名称と呼ばれるようになった。海軍に装甲巡洋艦という分類が正式に制定されたのは1907年9月27日〔のことであり、このときには「パーミャチ・アゾーヴァ」は練習船になっているため、正式分類で装甲巡洋艦と呼ばれたことはない。 「パーミャチ・アゾーヴァ」は、最初の大洋巡洋艦である「ゲネラール=アドミラール」級装甲巡洋艦に連なる直系の末尾を飾る艦であり〔、艦隊主力艦として整備された最後の巡洋艦であった〔のちに装甲巡洋艦「リューリク」が準主力艦として整備されている。また、巡洋艦の一種か戦艦の一種か論議のある巡洋戦艦(ロシアでは戦列巡洋艦と呼ばれる)については、ここでは数えていない。〕。次のシリーズは同じ大洋巡洋艦であっても専ら通商破壊艦として整備された「リューリク」=「グロモボーイ」クラスであり、「パーミャチ・アゾーヴァ」はこのシリーズへの橋渡し役を務めた。そして、このシリーズが19世紀のロシア帝国海軍巡洋艦整備の時代の集大成となった。「パーミャチ・アゾーヴァ」は戦史的にはほかの大洋巡洋艦ほど目立った活躍は残さなかったが、政治史的には19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシア帝国の極東政策で中心的な役割を担い、技術史的には次の世代の巡洋艦の基礎を築くという役目を全うした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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